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近現代陶磁史のなかの栄木正敏:産地と結び付いた陶磁デザイナーのオリジナリティとグローバリズム
外舘和子 TODATE Kazuko/美術評論家、美術史家 愛知県立芸術大学、名古屋芸術大学等の非常勤講師

1 序

 かつて私は一世紀以上にわたる日本の近現代陶芸史の中に初めて「実用陶磁器と陶磁デザイン」なる項目を設け、 森正洋や栄木正敏らの位置づけを試みた(註1)。陶芸家の余技的な食器や、一過性のムーブメントとしてのクラフト運動の紹介の範疇ではなく、デザイン(プロダクトデザイン)という所謂純粋表現としての陶芸とはまた別の壮大な価値体系を担う領域を敢えて陶芸史の中に組み込んで解説したという意味で画期的であったという評価も得ている。

 それは単に陶の造形をより広い視野で俯瞰したいという個人的貪欲にとどまるものではなく、栄木らがまさに日本の陶芸史、造形史、近現代史の流れの中から現れるべくして現れた作家であると考えたからであった。日本の陶磁デザインは、単に「アート」に対する「デザイン」、「鑑賞陶磁器」に対する「実用陶磁器」というような対概念や二元論のみで説明するには余りに不充分な、別の豊かな特性も持っており、日本陶芸の歴史や環境と不可分に発展してきたものでもある。

 本稿は、20世紀後半から21世紀、今まさに現在進行形で活躍中の陶磁デザイナー栄木正敏が果たしてきた役割、そのデザイン活動の内容と意義を記そうというものである。それはまた、未来に向けて日本の陶磁デザインの可能性を語ることでもある。

2 陶磁デザイン小史−デザインの誕生と形成 

 明治以降の日本陶磁の「近代化」における重要な要素に「デザイン」という概念の成立と展開がある。明治初期に「図按」と訳され明治を通じて主に模様下絵を意味したdesign(図案)は、大正期の終わり頃になると器物の立体的な形状をデザインすること、あるいは立体デザインそのものの図面をも意味し始めるようになる。東京高等工芸学校教授を務めた畑正吉は粘土などで制作した原型のような立体モデルを「立体図案」として説明している(註2)。“加工に先だって作家がものの形状や模様を決定(設計)し、第三者がそれを加工して製作する”というプロダクト・デザインの分業製作システムが胚胎するのである。

 昭和初期には工芸品を生活の中で見直すとともに、工業品美化の動きも見られ、1932(昭和7)年には雑誌『工芸ニュース』が創刊。工芸指導所が産業工芸の普及を意図して発行した同誌は1974(昭和49)年まで刊行された。同誌の内容を辿ると、日本の実用陶磁器は、デザイン、クラフトデザイン、クラフトの混然とした中で発展してきたことが分かる。

 そうした背景には、勿論モリスやラスキンの思想−アーツアンドクラフツ運動−ドイツ工作連盟−バウハウスといった19世紀末以来の一連の西洋近代デザイン運動の影響もあり、戦後日本の機能主義デザイン、インダストリアル・デザインへと結び付いていった。

 1952(昭和27)年には、社団法人日本インダストリアルデザイナー協会(JIDA)が誕生し、1957(昭和32)年には通産省のグッドデザイン(Gマーク)商品選定制度が発足。日本の陶磁デザイナーのパイオニアの一人森正洋 がデザインし白山陶器が生産した《G型醤油指し》は1961年グッドデザインに選定され、今日までロングセラーとなっている。日本の工業的な陶磁デザイナーの先駆者である森が描くのは、もはやかつての下絵模様や絵画的「図案」ではなく、立体を客観的に示す「図面」である。森は、一つの陶磁製品の為に、ときには50枚にも及ぶ図面を描いたという。

 森正洋の陶磁デザインを製品化生産した白山陶器株式会社は1951年に有限会社白山製陶所として波佐見というやきものの町に創業。日本のやきもの産地には大小様々な製陶メーカーが生まれ、一方に工房で作家自身が少量生産する実用陶磁器があり、さらにその中間的な規模や生産システムを取る工房や窯元が存続してきた。

 石膏型成形の技術は既に明治期に導入されたが、その後、そうした型成形や鋳込みなど分業生産、量産に適した技法の発達とも関わりながら、手加工の度合い、動力の割合を変化させつつ様々に実用陶磁器が生産されてきている。

 森正洋と白山陶器のように、陶磁デザイナーとそのデザインを一社で一貫生産する白山陶器のような製陶会社との継続的で良好な関係は、日本では未だ稀なケースである。むしろ、注目すべきは、普段、自身のスタジオ内で作家自身が少量生産を試み、一品制作も手掛けながら、ものにより、機会を捉えて、ときには改良を加え調製した上、第三者に製品化させる小松誠や栄木正敏のようなタイプの作家の存在である。彼らは、第三者がそれをもとに量産できる正確な石膏原型を作ることのできるデザイナーであり、日頃、自身のスタジオでアイデアを練り制作し、自身の手で少量生産する中で、量産の技術も熟知し、分業生産可能なものをデザインすることも行っている。それは例えば、窯元の親方がロクロなどを用いてサンプルを一つ制作し、それを見本に弟子や職人に量産させる在り方とは異なり、デザイナーによる「設計」と産地の職人という第三者による「加工」によって成立するプロダクト・デザインのシステムである。背景には北欧の実用陶磁器の影響などもあろう。1956(昭和31)年に創立された日本デザイナー・クラフトマン協会の会員には、手工業デザイナー兼陶芸家や、手工一貫制作のクラフト作家から製陶メーカーまでが、混然と名を連ねている。それはまさに日本の陶磁器の歴史と事情を反映したものでもある。

3 栄木正敏という陶磁デザイナー

(1)瀬戸という産地を活かした生産デザインシステムの形成

 森正洋らが戦後、「陶磁デザイナー」という存在を知らしめたとすれば、 栄木正敏は、小松誠らとともに、森に続く陶磁デザインの第二世代である(註3)。特に、栄木の場合、瀬戸のような小〜中規模製陶所が集中する産地を活かして陶磁デザインするという日本的といってよい陶磁器クリエーターの在り方を示した代表的な作家である。現在、栄木が教授を務める愛知県立芸術大学も、日本有数の陶磁デザインに実績を生み出している。

 昭和初期の瀬戸では富本憲吉が地元の白生地に絵付けする類いの日常食器を試みているが、それは設計と加工というデザインのシステムを確立するには至らなかった。しかし、富本のそうした中間的な在り方、産地の技術を活用するという発想をデザインのシステムに取り込み、いわば富本の日常の器に対する理想を、陶磁器のプロダクト・デザインというシステムの中に整理し、実現していったのが、栄木の仕事である。

 意匠内容により、栄木は、ほぼペーパーデザインのみのもの、石膏原型まで作るもの、模様絵付けまで自身で手描きするもの、絵付け職人に任せるもの、あるいは転写で模様を入れるものなど、様々なレベル、種類で生産を工夫してきた(註4)。それはまた、陶磁器の制作技術、産地の状況を熟知した栄木のような陶磁デザイナーこそが成し得るデザイナーと製品との関係でもある。然るに、例えば全く異なる領域、例えばファッションデザイナーが名前を提供した意匠を製品化するような場合の「陶磁デザイン」とは異質のものであると考えられよう。

(2)デザイナーの「個」を製品上に明記−著作物としての陶磁デザインの主張

 かつて富本憲吉は、1932年と1934年に少なくとも計4度、瀬戸に滞在して地元の職人たちと日常の食器を制作し、瀬戸で定宿としていたある旧家に画帖を残している(註5)。その画帖で、富本は「著作権法」「意匠登録」「オリジナリティ」の重要性、当時のそれらの欠如について産地の量産陶器の作り手、及びそれを使う人々に対しても切々と訴えている。日本では著作権法そのものは1899(明治32)年に制定されているが(註6)、著作物の指す内容として「美術工芸品」が明文化されたのは、1970(昭和45)年のことであり(註7)、また「物品(物品の部分を含む)の形状、模様若しくは色彩又はこれらの結合であって、視覚を通して美感を起こさせるもの」即ち製品デザインの著作権を保護する意匠法が制定されたのも戦後の1959(昭和34)年のことである。そのくらい、陶磁器に関しては創作性の保護や作り手の権利の制度化は遅かった。量産陶磁器については戦後、生産デザインや工業デザインという意味での「デザイン」領域の認識が生まれて初めて「著作物」としてのデザインの価値が認められるようになったのである。昭和初期の富本の主張は、一品制作のみならず産業的な陶磁器についても「著作権」や「オリジナリティ」及んでいる点で、先進的かつ切実なものであったといえよう。 

 そうした著作物としての陶磁デザインを認識させ、誰の眼にも明らかにするため、量産陶磁器のエリアでいちはやく署名を実践した作家が、栄木の師、加藤達美である。1965年、栄木が最初に勤務した瀬栄陶器(千人程の磁器メーカー)のデザイン顧問であった加藤のデザインによるしたディナーウェア・シリーズ《月光》(註8)には「TATSUMI.K」のマークが入れられている。当時、かの森正洋さえも白山陶器のマークのみであった時代に(註9)、デザイナーの著作物であることをヴィジュアルで示したのであった。栄木も師加藤に倣い1970(昭和45)年、作家26歳の時から「DESIGN BY MASATOSHI SAKAEGI」といった裏印を入れている。さらに、生産方法により、自身が絵付したものには手描きサイン(栄木正敏の「マサ」)、転写など第三者に生産を任せたものには「木」と「手」を組み合わせた栄木のロゴマーク(「手」で考える「栄木」の意)という風に、裏印を変えて生産システムの別をも明らかにしようとしてきたのである。また、生産メーカーの裏印と併記もある。

 量産陶磁器の裏印といえば、メーカーの名のみが一般的であったデザイン陶磁器の世界に、栄木は70年代以降、サインやロゴの表示によって、陶磁デザイナーの存在を示すという姿勢を貫いてきた。それはまた、意匠のオリジナリティを主張、保護する意味からも今後一層重要事項となっていくであろう。栄木の姿勢は、また小松誠ら同時代の他のデザイナーらへも波及していくのである。

(3)栄木デザインの歩み

 1944年、千葉県に生まれた栄木正敏は、高校生のときに雑誌及び自宅のティーポットで森正洋を知り、『工芸ニュース』等も10代から愛読していたという。それは栄木が単にやきものに興味を持っただけではなく、デザイン領域のやきものに対して早々に関心を持っていたことを示している。武蔵野美術大学短期大学専攻科で加藤達美らに学んだ栄木は、卒業後は名古屋市の陶器会社のデザイン部に入社、夜間に自主制作しつつ1960年代の後半から各種のコンペに出品、入選を重ねていく。その後、瀬戸市のタイル、ノベルティ、食器の工場で陶工として働きながら、技術のみならず、生産のシステムや環境についても体得していったようだ。1973年には企画・生産・販売を一貫して行う会社セラミックジャパンを杉浦豊和らと設立し、広報から流通までデザイン陶磁器の普及を社会の中で捉える機会も得ている。

以下、時代ごとの代表作を取り上げながら栄木のデザインの特徴をみていこう(註10)

T 瀬戸の絵付け職人を想定したグッドデザイン:70年代〜

 栄木の初期代表作の一つは72年に瀬戸市で初めてGマークに選定された《手描きの食器》のシリーズであろう。大らかな花模様はその単純さゆえに飽きが来ず、また手描きならではの親しみある模様である。本作で栄木は、所謂モダンデザインが排除する方向にあった手描き模様を量産陶磁器に取り入れることを試みた。瀬戸の絵付け職人が無理なく再現できる明快さは、「点・線・面という要素の組み合わせ」で模様を創作する栄木の意匠にも拠る。それはまた半磁器中火度酸化焼成という素材技法への配慮により可能となったものでもある。意匠内容の工夫と瀬戸の絵付け職人という第三者への適合性、素材・技法の吟味、かつ時代に提案する姿勢を持ったまさにグッドデザインである。77年には、栄木とセラミックジャパンが、別の手描き食器のシリーズで国井喜太郎産業工芸賞を受賞しているが、理由は「加飾の健全性を目指す陶磁器製品の企画、生産及び販売の総合的推進」とある。つまり意匠内容とともにその生産システムの工夫まで含めたデザイン活動として評価されたのである。

U 和洋を越えた“現代”:70年代末〜80年代

 栄木のデザインの特色の一つに和洋折衷ならぬ“脱和洋”とでもいうべき傾向がある。西洋風が定着した現代日本の日常生活のなかで尚、和の感覚を無理なく取り入れる栄木の姿勢は、単なる和洋混交にとどまらない一体感ある新次元の脱和洋デザインを生み出してきた。それは手描きの絵付など、模様の範疇にとどまらることなく、80年にデザインした白マット急須の水平なハンドルや89年の《ストーンウェア「和&洋」》、あるいは伝統的な天目釉の質感や性質そのものを活かした意匠でモダンなデザインに仕上げた79年の《天目ディナーウェア》など、形態と色や質感との巧みな組み合わせによる和洋の一体性と調和によって現代そのものを象徴してもいる。

V 呉須とユーモア:90年代〜

 栄木は70年代にも呉須の手描き模様で脱和洋の食器をデザインしているが、90年代になると、呉須模様にも大きな変化がみられる。しずく模様など、呉須の「面」より「線」を主役にしたタイプがそれである。瀬戸の職人が飯椀の網目模様を描くために使う呉須用の細筆を、栄木も職人にならって手作りして使用する。栄木の90年代以降を代表するシリーズにみる呉須の青いラインはフリーハンドの模様でありながら、ある統一感を示している。それを生かした組み合わせプレートや、家族それぞれの為の異なる湯飲み、模様が異なる組皿など、卓上における「デザインの統一性」の問題を、栄木は白地にフリーハンドのブルーで鮮やかに乗り越えた。結果、使い手に選ぶ自由、組み合わせる楽しさなど、使う側を参加させるデザインへも展開して行くのである。
 90年代の栄木の呉須のシリーズにはしばしば日常の疲れも吹き飛ばす軽快なユーモアが漂う。形態のうえでも、幾つもの点で支える高台の湯飲みや、角が凸形のアールを描く角皿など、模様と相俟ったユーモラスなものが生まれている。また呉須模様のシリーズには、近隣の産地美濃が明治中期以降得意としてきた転写技術も、ものにより大いに活用している。

W 技術の工夫と習熟から拡がるデザイン/ロングセラーの誕生:2000年〜

 あるデザインが製品化するにはしかるべき時期を待たねばならない場合がある。WAVEという名のテーブルウェアは、80年頃にデザインされ2000年に製品化された。特に3点をテーブルとの接点として波打つ曲面を描いて立ち上がる白磁タンブラーのフォルムの美しさは比類がない。底全体に施釉する伏せ焼きなど産地の伝統を熟知した栄木ならではのデザインであり、卓上でも手に持っても優れた安定性を発揮するユニバーサルデザインの性格もあわせ持つ。
 技術に対する習熟は食器や室内使用の器のみならず、90年代以降積極的に展開するレリーフタイルなど建築の内外や空間へ展開している。それらを実現しているのは、押し出し成形や鋳込み成形など、量産陶磁器の産地が得意とする技術である。
 また陶磁器素材の理解と経験が、ときにメラミン樹脂など、他素材へと応用展開することもある。かつて富本憲吉も晩年、関西のメーカーでメラミン食器を試みていたというが、栄木は、フォルム、高価な金型の分割数を最小限に押さえた低コストによる、陶磁器では困難なメラミンならではの急須やマグカップをデザインしている。単純にして明快な形態は、軽さ・安定感・扱いやすさなどユニバーサルデザインの性格を持つものとなっただけでなく、従来の「プラスチック」製品にないモダンで洒落た雰囲気を出すことにも成功している。素材の性質を活かした、機能的にもヴィジュアル的にもユニバーサルなデザインである。

4 結語

 大正期末に立体モデルの登場によって胚胎した設計の意味での「デザイン」は、生活工芸品の見直しや工業製品の美化の動きを経て、戦後、意匠法の制定や著作権法の改定等法律の整備、日本インダストリアルデザイナー協会や日本デザイナー・クラフトマン協会等関連団体の設立や展覧会の開催、Gマーク選定事業の発足等により、工芸(かつては、イコール工業)とは深い関係を持ちながらも分化発展し異なる創造のシステムや社会的価値を築いてきた。

 デザインとは産業/芸術/消費者と結び付いて成立する世界である。この「産業」のうちでも地場産業に注目し、地場に蓄積された技術や経験を“産業的磁場”すなわち“産地力”に変換し、自らの物づくりに生かしていくという在り方が、日本では陶芸作家にも陶磁デザイナーにもある。特に、栄木が示してきたのは、やきもの産地の伝統的な素材や技術(及びその進化の把握)、瀬戸という産地ならではの環境における生産システムの工夫、現代的なウイットに富んだ個性的な意匠感覚とアイデア、そして使い手と対話する精神の結び付きによって物づくりを進める姿勢である。しかもそうした生産方法の中に、彼は「デザイナー」の存在を明らかにすることを裏印等によって積極的に実践してきた。

 栄木の活動は、戦後、森正洋らが取り組みを始めた“陶磁デザインの本格的近代”をさらに、誠実かつ戦略的に拡張、推進するものである。デザインという概念の確立から、その実践と普及へ。産地に根ざし、かつデザイナーの「個」に意識的な現代の本格的陶磁デザイナーという栄木正敏の在り方に、ローカルから発するオリジナリティとグローバリズムという21世紀陶磁デザインの重要な方向性をみることができる。陶磁器デザイナーとは、極めて社会的な存在なのである。

註1  : 外舘和子「近現代陶芸の一世紀−日本陶芸史における<近代性>の意味」茨城県陶芸美術館図録、2006年。
註2  : 「立体図案」は別名「工芸彫刻」といわれた。出原栄一『日本のデザイン運動 インダストリアルデザインの系譜』ぺりかん社、1989年、98頁。
註3  : 外舘和子「実用的生活芸術としての陶磁器を考える−デザインとクラフト」『暮らしのうつわーデザインとクラフト 小松誠 平川鐵雄 佐藤剛』茨城県陶芸美術館、2002年。
註4  : 外舘和子「陶磁デザインの器展」『陶説』2007年11月。
註5  : 外舘和子「富本憲吉のメッセージ−瀬戸で発見された画帖から−」『陶説』2006年8月。尚、調査には栄木も同行した。
註6  : 旧著作権法によれば「文書演述図画建築模型写真演奏歌唱その他文芸学術若は美術(音楽を含む以下之に同じ)」が著作物の対象である。
註7  : 著作権法第二条2。
註8  : 第1回日本ニュークラフト展でニューニュークラフト賞受賞。
註9  : かのG型醤油さしも「白山陶器」の名でグッドデザインに選定。
註10: 以下西暦を基本に表記することとする。

略歴
外舘和子(とだて・かずこ)
  東京都生まれ。茨城県在住。筑波大学卒業。オハイオ大学TA留学。
茨城県近代美術館、茨城県陶芸美術館、茨城県つくば美術館主任学芸員を歴任。現在 美術評論家、美術史家。
国際陶芸アカデミー会員。 東洋陶磁学会会員。愛知県立芸術大学、名古屋芸術大学等非常勤講師。
国際陶磁器展美濃等ほか国内外の審査委員。
   2002年、イギリスのテート・セントアイヴスで日本人学芸員として初めて講演を行い、以後、韓国、アメリカ等で講演、 展覧会監修等に かかわる。主な論文に「A View from Japan of Ceramic Artist Ksho Ito」(『Kosho Ito Virus』 Tate St.Ives,2002年)、 「陶芸史におけ るオブジェ導入の経緯と非実用陶芸としてのオブジェの成立-《ザムザ氏の散歩》と八木一夫の作家性をめぐって」(『東洋陶磁』35、2006年)、 「近現代陶芸の一世紀-日本陶芸史における<近代性>の意味」(『日本陶芸100年の精華』 茨城県陶芸美術館、2006年)。
  主な著書
『中村勝馬と東京友禅の系譜−個人作家による実在表現としての染織の成立と展開』(染織と生活社、2007年)
『FIRED EARTH,WOVEN BAMBOO: Contemporary Japanese Ceramics and Bamboo Art』(Museum of Fine Arts,Boston, 2013年)
  共著
練上玻璃光−松井康成作品集』(講談社、2005年)、翻訳書に『バーナード・リーチ再考』(四文閣出版、2007年)
「陶説」「陶工房」等工芸専門誌に多数評論連載

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